横井利明です。
昭和21年2月、祖父 横井喜太郎は名古屋で初めてとなる保育園「道徳幼児園(現道徳保育園)」を創設しました。
戦後まもない荒廃した社会の中で、行き場を失った子ども達のために誰も手をつけなかった事業にいち早く取り組んだ祖父のアイデンティティ(独自性・独創性)は、並外れたものがあったと思います。
その後、祖父は、笠寺に移住し、昭和26年笠寺幼児園を創設しました。
父 横井淳は、横井喜太郎の遺志を継ぎ、28歳の若さで2代目園長に就任。しかし、就任直後に襲った昭和34年9月の伊勢湾台風の被害を受け、園舎を初めすべての財産を失いました。
どの銀行にも融資を断られ、親戚回りをして資金を集め、保育園の再建を果たしたそうです。
保育園の経営がどん底の中で、昭和36年6月、父 横井淳 母 美智子の長男として、横井利明は生を受けました。
父にとって、伊勢湾台風は初めての挫折でした。誰もが、再建は困難と考える中で、父が45年間も園長を勤めることができたのは、地域の皆さんや保護者の皆さんのおかげはもちろんのこと、父の「社会のためにがんばりたい」という強い信念のたまものであったと思います。
その父も平成19年12月23日に亡くなりました。父の最後の言葉は、私の手を握って「とし、ありがとう…」でした。父に対し何もお返しができなかった私には、大変重い言葉でしたが、父はきっと、「皆さんのためにがんばれ。」という思いをこめて、この言葉を私に残したと信じています。-
大学を卒業後、自分がやってみたかった小学校教師の道に進もうと考え父に相談しました。
しかし、父の願いは保育園の跡取りでしたので、反対されました。私は「10年間だけ教師をさせてほしい。」という願いを父に申しあげ、父の許しを得ました。
私にとっては、たった10年間しか許されていない教職でした。それだけに休みなく学校へ行き、自分に与えられた時間のすべてを教育につぎ込みました。
クラスの子ども達には、授業後も残して漢字や計算の練習を、その後は、野球部・サッカー部・ソフトボール部・ハンドボール部の顧問を、さらに児童会の顧問や青年部長など、時間が許す限り、仕事に打ち込みました。
また、日曜日などは運動会やソフトボール大会など小学校でおこなう学区の行事のお手伝いもさせていただき、学区の方々にもかわいがっていただきました。
一方、障害児学級の担任も経験させていただきました。
現在でも当時の障害児クラスの子どもやご家族とお付き合いさせていただいておりますが、そのときの経験が議会活動の随所に活きております。 教職に就いて7年目の冬、参議院議員の大島先生から、職場である小学校に電話があり、「すぐに家に帰ってほしい。」と呼び出しを受けました。
サッカー部の時間でしたが、他の先生に指導をお願いし、急い自宅に戻ったところ、いきなり、名古屋市議会への出馬要請。
夜中の2時まで説得を受けましたが、結果的には担任を持っているのでとお断りしました。
しかし、翌朝、校長先生から校長室に呼び出され、「横井君すぐに辞表を書きなさい。教育委員会から要請されている。時間がない。後任の講師の手配も進んでいる。」すでにレールが敷かれ、自分の意思とは関係なく動き始めてしまったことに気づきました。
校長先生との間でいろいろやりとりはあったものの、結果的には敷かれたレールの上をすでに走らされている中で、どうすることもできず、後任の講師も決まりつつある状況からやむを得ず辞表を提出。そして、たった3か月の選挙戦が始まったのです。選挙はとても厳しいものでした。
「お前みたいな若造に何ができる!」「落選間違いなしだ。やめとけ。」「選挙なんか大嫌いだ。2度と来るな。ビシャ!(扉を閉める音)」中には「50票集めてやるが金が必要だ。50万円用意してくれ。」 厳しいお声の一方で、数多くの励ましもいただいた。「あなたのお父さんに世話になった。恩返しのつもりで、応援しよう。」「同級生が選挙に出るなんて思いもしなかった。何が何でも当選させたい。」「あなたのおじいさんのこと、知っているよ。」など、思いも寄らない方から声をかけていただいたり、懐かしい同級生から励ましてもらいました。
私が小学校で教師をしていたときの教え子から激励の花束をもらったときには、涙が出てきました。
選挙は、まさに人間模様。そして、29歳で初当選。11223票という、南区における自民党議員の過去最多得票をいただきました。
全く、私に縁もゆかりもない多くの方々が、何の打算もなく必死に応援していただいた結果です。
あわせて、私の両親、ご先祖様のおかげでもあります。そして、巡り会わせというのは不思議なもの。
11223票の後ろ4桁1223、つまり12月23日は、17年後、父の命日となったのです。私の政治信条は「アイデンティティ」いわゆる「ヨコイらしさ」です。
これは、祖父 横井喜太郎が名古屋市で初めて保育園を創設したときの独自性・独創性が脈々と私の体の中に流れていることの証でもあります。
したがって、私の質問は、他の議員さんの質問とは全く異質なものであり、ヨコイというと○○○だと、他の議員さんから言っていただけるような新しい発想の施策を、まず、本会議場で発表し、その後、畑を耕し、種をまき、水遣りから収穫するまで一貫して行っています。
例えば、トワイライトスクール、いわゆる放課後の子ども達の居場所事業は、平成5年に本会議で始めて取り上げ、第1号を母校道徳小学校に設置し、その後、自ら地元で検証を進め改良を加えながら、現在では、名古屋市内ほぼ全校で実施されています。そして、文部科学省の推奨事業として、全国に紹介されています。
また、水害から街を守る地下の大放水路構想も平成4年本会議で取り上げ、第1号は道徳雨水貯留管として整備。現在では南区だけでも12路線、地下の川が整備されました。
ネーミングライツの導入も本会議で取り上げ、ガイシホールとして6億円が市の収入になりました。
笠寺一里塚のDNAを引き継いだ2世誕生などは全国でも初めての取り組みです。
7年前に日本で初めてヨコイが作り発表したマニフェスト、高齢者用公園、行政評価の導入、学校におけるPDCAの導入、障害者施策、乳幼児の医療費の助成制度、平屋のコミュニティセンターの設置、エコスクール・校庭の芝生化、ソーラーパネルの設置などさまざまな独自性、いわゆるヨコイらしさを築いてまいりました。
最近では四日市市長選挙において、田中現市長のマニフェスト作りのお手伝いを依頼されたり、松原市長の3期目のマニフェスト作りをお手伝いしたところです。
また、細川名古屋市長候補のマニフェスト作りのお手伝いもしました。
私でなければできない仕事、これがヨコイらしさだと確信しています。私の毎日の日課は、午前8時20分から9時ごろまで、保育園に登園する子ども達との正門あいさつから始まります。
その後、議会活動(本会議・委員会、会派の意見調整・他会派との調整、行政や関係団体との折衝など)、政務調査活動、政党活動、後援会活動をメインに取り組みます。
市・区主催行事、学区や各団体の行事などにも積極的に参加しています。お困りの方々から相談があれば、市・区内を縦横無尽に走り、どこでも出かけます。
もちろん、祖父が創設した道徳保育園や笠寺幼児園の行事、私が理事長をつとめる特別養護老人ホームはるかぜ、デイサービスセンターはるかぜ、ショートステイはるかぜ、居宅介護支援センターはるかぜの仕事も必要に応じて行います。